今月の聖句/バックナンバー

・12月の聖句

《その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。》 

 

                                                            (ルカ2章 8~13)


・11月の聖句 

イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 》 

                                                                  (ルカ17章 11~19) 


・10月の聖句  

≪「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」≫

                                                        (マタイによる福音書21章 28~31)

  


・9月の聖句 

《 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒している」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 》

                                                                    (ルカ15章 1~7)


・7月の聖句 

《すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい。』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか。」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 》

(ルカによる福音書 10章25~37)


・6月の聖句

《「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」》 

(ルカ15章 4~7)


・5月の聖句

《さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが12歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムへ引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いてる人は皆、イエスの賢い答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」するとイエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」》

 (ルカ2章 41~49)


・4月の聖句

《 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。》

(マタイ6章 25~26)


・3月の聖句

《 そこで、わたしのこれからの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、 倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれからの言葉を聞くだけで行わないものは皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。 》

(マタイ7章24~27)


・2月の聖句

《 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが 満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。》

(ヨハネ15章 9~15) 


・11月の聖句

《 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。 》 
(ルカ7章 11~15) 


・10月の聖句

≪すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」≫
(ルカによる福音書10章 25~37)


・7月の聖句

《 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか」彼らは、「主よ、来て、ご覧ください」と言った。
イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 》
(ヨハネによる福音書 11章32~36)


・6月の聖句

《また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。》
(ルカ15:11~24)


・5月の聖句

《そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」 》
(ルカ1:46~48)

<解説>
 この箇書はマリアの賛歌という聖書の箇書です。この前の部分に有名な「受胎告知」の場面が記されています。ヨゼフといういいなずけがあり、これから結婚するマリアの元に突然天使が現れ「あなたは神の子を身ごもり男の子を産むでしょう」と告げます。告げられたマリアはどれだけ驚き、戸惑い、不安になった事でしょうか?それは人間として当然の事だと思います。人間の常識から考えて、あり得ない事をいきなり告げられた時、私達は誰でもマリア様と同じ様に戸惑う事でしょう。そしてこの時きっとマリア様は、自分の事ばかりでなく生まれてくる子どもの事も考えたに違いありません。生まれてくる子どもが人々からどう見られるのか、どんな扱いを受けてしまうのかなど、それはとても母親らしい心配なのだと思います。しかしマリア様はそんな様々な戸惑いにあっても、最終的には人間の判断を越えた、理解を越えたものを信じ従おうと決心しました。
  常に謙虚であり、神様の恵みに感謝し賛美するマリア様。突然告げられた事実も、神様の祝福であると知って現実をそのまま受け入れるのです。喜びに満ちたマリア様の言葉には、従順に神に向うまっすぐな心を感じます。「主はあなたと共におられます」と天使が告げたように、神様は悩み苦しむマリア様に寄り添い支えて下さるのです。それは私達も同様です。目には見えませんが、いつでも共にいて私達を思いやり、見守り、支えて下さる方がおられるのです。ですから私達もマリア様の生き方に倣い、苦難や悩みの中にあっても大きな力を信じ委ね、安心して恵まれた者として歩んで参りましょう。


・4月の聖句

《「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国は このような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の 国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。》
(マルコ10:14)


・3月の聖句

《イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアサイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うために来たのである。」 》
(ルカ19:1~10)


・2月の聖句

《イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。 》
(ルカ7:1~10)


・1月の聖句

《平和を実現する人は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。》
(マタイによる福音書 5:9)


・11月の聖句

《 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 》
(ルカ17:11~19)

<解説>
 今月の聖句は十人の重い皮膚病を患っている人のお話です。
 十人は遠くの方から声を張り上げて叫びました。当時、重い皮膚病を患っている病人は、律法によって人に近付く事が禁じられていたのです。
 イエス様の評判を聞き、この人達もイエス様に癒されたいと望み、必死に『わたしたちを憐れんでください』と、伝えているのがわかります。
 イエス様はその姿を見て『祭司たちのところに行って体を見せなさい』と言われました。
 病気が治った事を、祭司に体を見せる事で証明してもらわなければならないからです。
 すると、行く途中で彼らは重い皮膚病は治り、清くされました。この喜びはどれ程だったでしょうか?隔離された世界で生きるしかなかった彼らが、晴れて公の場で生活する事が出来る喜び。それは、十人皆同じはずでした。しかし、イエス様の元に戻り感謝の気持ちを伝えたのはその中の一人だけだったのです。感謝の気持ちを表したこの人にとっては、祭司に病気が治った事を認めてもらい社会復帰する事よりも、イエス様の元に行きたいと、居ても立ってもいられない思いだったのでしょう。
 この九人と一人の違いはどこにあるのでしょうか?九人にとっても、イエス様は確かに重い皮膚病を治して下さった方なのですが、喜びのあまりその存在を忘れてしまいました。しかし感謝を伝えに戻った人にとって、イエス様はその人の全てになりました。自分の全存在はイエス様からのものであり、全てをより頼んで生きていくのです。
 私達は恵みを喜びますが、とかく恵みを与えて下さる方を振り返る事を忘れてしまいます。
 恵みを与えて下さる方に感謝し、自分の力で何もかもを成しているのではない事を、謙虚に受けとめなければならないのです。
 今月は子ども達と共に、一人では生きていけない事を知り、全てのものに感謝の心が持てるよう、励んで参ります。


・10月の聖句

 《そのとき、ぺトロがイエスのところに来て言った。 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。 「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。 ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたころ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。 『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」》
(マタイによる福音書18:21~35)


・9月の聖句

 《イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザーカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うために来たのである。」》
(ルカ19:1~10)

<聖句の解説>
 イエスがエリコにお入りになった時、ザアカイという人物に出会います。
 ザアカイは徴税人の頭であり、金持ちであったと記されています。
 徴税人は同じユダヤ人から、様々な税金を取り立てる仕事をローマ政府から請け負っていた人々です。中には高い税金をふっかけ、私腹を肥やしていた者もいました。
 その頭であったというのですから、周りの人から嫌われ、軽蔑され、誰も人として扱い、付き合ってはくれない存在だった事でしょう。
 ザアカイは自分の町にイエスが訪れるという事を知り、一目見たいと思ったのでしょう。
 しかし背が低かったザアカイは、群衆に遮られて見ることができませんでした。そこでどうしたら良いのか考え、走って先回りをし、いちじく桑の木に登ったのです。
 そこからイエスが見えた時、ザアカイはどんな気持ちだったでしょうか?
 イエスを見るという願いは叶った訳です。しかし、それだけでは終わりませんでした。
 イエスはザアカイの登っている木の真下に来ると、ザアカイを見上げて声をかけられたのです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と。
 どんなに驚いた事でしょう。徴税人であるなしに関わらず、一人の人間として認めてくれた事が、どんなにザアカイにとって嬉しい出来事だったでしょうか?
 しかし、人々の反応は全く違うものでした。イエスに対して「罪深い男の所に行って宿をとった」とつぶやきます。それはイエスも所詮、罪深い男の仲間だと思ったということなのです。ザアカイとは正反対の思いでした。ザアカイはイエスの愛に触れて、自分は罪深い者だと気付きました。そして、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と言ったのです。
 財産の半分というところに、自分自身と向き合い、自分を受け入れ、イエスの前で嘘偽りなく、自分の果たせる事を伝えたザアカイのひたむきな姿を感じます。今までのザアカイの生き方からは考えられない事です。イエスは「今日、救いがこの家に訪れた」とおっしゃいました。この罪深いザアカイを、イエスは探し求めて下さっていたのです。
 そしてザアカイはイエスと出会い、ザアカイの中の価値観や生き方を、180度変えさせられました。ザアカイのように自分のありのままを受け入れ、どんな時にも、どんな者をも愛して下さるイエスの呼びかけに応えられるよう、歩んでいきたいと思います。


・7月の聖句

《 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、 イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人は ファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、 心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る 者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないこ とを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちなが ら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とさ れて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれ でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 》
(ルカによる福音書 18:9~14)

<聖句の解説>
 今月の聖句は、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」の箇所です。このたとえ話の中には、ファリサイ派の人と徴税人、二人の人物が出てきます。そして、この二人の祈りの姿を通して神の義について語られています。
 ファリサイ派の人々は、律法の専門家であり神の掟である律法を熱心に守る人々でした。また、厳格に律法を守り行う事で神から正しい人間と認められようと志していた人々です。しかし、そのことに執着し律法を守ることが目的となると、守らない人、守れない人を見下してしまうようになりました。
 ファリサイ派の人の祈りは、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と、他人と比べて自分を誇り、自分を正しい者としています。自分の罪については何ひとつ考えることさえありません。一方、徴税人の祈りは全く違いました。遠くに立ち目を天にあげることすらせず、胸を打ちながら祈ったというのです。「罪人のわたしを憐れんでください。」と。
 徴税人は、税金を取り立て本来の額以上に税金を取る事さえあり、自分の懐を肥やす悪い人間だと見られていました。その徴税人が、神の前に罪を認め「わたしを憐れんでください」と祈りました。それは、この人が神に出会いありのままの自分を認め、神と向かい合ったからだと思います。神に近づく資格などない、裁かれて当然なのだ、と目を上げる事すら出来ないほどに心から神の憐れみを請うたのです。
 神様は、私たちが心の中で思ったこと、行ったこと、すべてをご存知です。人を批判し悪口を言う事も、嘘をつく事も時にはあるでしょう。そんな罪の多い私たちをご存知なのです。ひとつも罪を犯さずに生きていくことは、不可能なことでしょう。
 イエスは、ファリサイ派の人々と徴税人のうち、義とされて家に帰ったのはこの徴税人だったとおっしゃっています。義とされるという事は、正しいとされるという事です。いつでも自分は正しいと人を見下していたファリサイ派の人々は、神に認められませんでした。なぜなら、ここでいう正しさ、義とは神様の視点での正しさなのです。誤魔化しのきかない真実です。
 ファリサイ派の人々は、驕り昂ぶり自分の視点での正しさにうぬぼれていたのです。本当に神と向き合おうとはしていませんでした。「神様...」と呼びかけてはいますが、その心は神に向いてはおらず徴税人や他人に向き、比べる事をしてしまいました。それは、私たちも陥りがちな過ちかもしれません。人と比べて優越感を味わったり、人に嫉妬したり、劣等感に苛まれたり。そうではなく、神様と自分という関係の中でしっかりと自分のありのままを受け止め、多くの恵みに感謝しながら神様の思いに適うもの、神様の正しさを生きていける者になりたいと思います。自分の弱さを認め祈りましょう。


・6月の聖句

《主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。 「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。 「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。 女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。 アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。 「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」》
(創世記3:1~13)

<聖句の解説>
 今月の聖書の箇所は、聖書の一番初めに出てくる創世記の中のお話です。この箇所は、誰もが一度は耳にした事があるほど有名なお話です。
 神様は、六日間でこの世界を造り、様々な動植物、空のもの、海のもの、地のものを創造され、七日目には自分の仕事を離れ休まれたと記されています。そして、私たち人間は最後に神に似せて造られたのです。それほど、神様は人間を愛しておられました。
 男をアダム、女をエバ、二人の人間が創造され、二人はエデンの園で何不自由なく楽しくくらしていました。それは、いつも神様に守られ安心の中にいるという事なのです。神様は、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまうから。」とおっしゃいました。神様との約束です。ところが、ある日、二人の前に蛇が現れ言葉巧みに唆すのです。
 神様との約束を破り、二人は食べてはいけないと言われていた果実を食べてしまいました。約束を破って木の実を食べるという事は、「神になろうとする」という事です。
 確かに蛇が言った通りに、二人の目は開けました。しかし、それは神のようになるどころか自分たちが、裸である事に気付き、自分たち人間がいかに無防備であったのかを知りました。今までのような、無邪気で素直な心では無くなってしまったのです。
 罪を犯した人間は、相手が悪いのだと主張し、罪を認められず、犯した罪を共に負おうとは考えませんでした。神様との約束を破って、謝ることもせず、問いかけにも正しく答える事もできない。それゆえ、神様が恐ろしくなり、逃げ隠れする者となりました。今まで、あんなに平和だったものが神様から守られた状態から離れて行かざるを得なくなりました。
 その時から、私たちは、過ちを犯す弱い者となりました。自分で善悪を判断し、どれを選びどのように行動するかを決めなくてはなりません。そのようになってしまった私たちは、自分自身の弱さや足りなさを認め、嘘やごまかしによって、心の平和が壊れることのないように生きる必要があります。時に過ちを犯したとしても、過ちを認め、悔い改め謝罪することが大切です。
 自分自身をごまかすことも、ましてや神様をごまかすこともできません。いつでも、本当の自分を表し、誠実な者、謙虚な者でありたいものです。神様は、私たち人間の弱さや愚かさをよくご存知であり、慈しみの心でいつも見守り愛して下さるのですから。